英霊の目

現在の我々にとっての「科学」は、キリスト教の土壌から生まれたものの、それに不都合な方向へと成長してゆき、理神論や無神論という形でキリスト教を食い尽くしてしまったかのようだ。

それでも、科学が依拠してきた普遍的真理の存在に対する信頼感は、もともとキリスト教に由来したものなのだろう。信者であろうとなかろうと、「神の目」を意識する文化を継承している。

掛谷英紀学者の正義』には、日本に「神の目」がないことが書かれている。それは、新型コロナウィルスの起源追求という具体例において、絶望的なまでに明らかなものとなった。

しかしながら、同書は、日本に「神の目」はないものの、「英霊の目」があるとしていて、これは極めて重要な指摘である。ただ、「英霊の目」を意識できる人は、あまり多くはないのかもしれない。どのようなかたちにせよ、日本の存続は、ここにかかっているように思える。

「神の目」ではなく「英霊の目」、そして、「ノブレス・オブリージュ」ではなく、掛谷先生流の「目の前にある問題を解決できる能力のある人間の義務」というのは、良い意味で日本的だ。我々にとって自然で、地に足がついた安定感がある。

「リベラル」

いわゆる「リベラル」が自由主義的な意味から遠くなってしまって、カタカナで表記するしかないような状況にある。

John J. Mearsheimer "The Great Delusion: Liberal Dreams and International Realities"
には、特に内外二重基準の欺瞞性に注目して、リベラルについてわかりやすく分析されていた。

報道は日米ともに米民主党的な価値観一色といった感じで、ついていける気がしない。僅かに残された言論の自由を辿って、読むべき書籍を選んで読んでいくしかない。

"Le Petit Nicolas"

"Le Petit Nicolas"読了。
仏語の本は、以前に薄い絵本みたいなのを一冊読んだことがあるだけで、まとまった本はこれが初めて。やさしめの本のはずだけど、生活に密着した基本的な単語が難しくて苦戦した。頑張って辞書を引く習慣がついたのは良かった。

英語で用が足りることが多いので、第二外国語はなかなかものにならない。何度もやろうとしては挫折してというのを繰り返してる。毎度いろいろ忘れてしまうものの、大昔に大学の二外で教えてもらったことはある程度覚えているので、当時気長に教えて下さった先生には感謝しかない。受講者が少なかったこともあって、活用など、毎回、全員できるまで練習させてくれた。あまり進まなかったけれど、限られた時間で何か意味のある授業をしようという深い配慮だったのだと改めて思う。

もうお会いする機会はないけれど、とにかく辞書を引きながら一冊読めたことを、御報告できたらいいなぁと思う。

青い鳥

小鳥がいなくなって十字架を倒したシンボルになってから、tweetするのが楽しくない。twitter filesとか、言論統制問題については前進しているはずなのだけど、コンセプトが変わってしまった感じでなかなか慣れない。

いろんなつながりもあるので、アカウントは残すつもりだし、何かしら投稿もするだろうけど、無駄に書き連ねたいようなときには、とりあえず遊水地のような場所をと思って、ブログに頼ってみることにした。続いた例がないのだが。

理路整然と意見を書いたりできるわけもないけど、立ち泳ぎのように何かしら書いてないといけない。呼吸するように、ただ読んで書いてる。