英霊の目

現在の我々にとっての「科学」は、キリスト教の土壌から生まれたものの、それに不都合な方向へと成長してゆき、理神論や無神論という形でキリスト教を食い尽くしてしまったかのようだ。

それでも、科学が依拠してきた普遍的真理の存在に対する信頼感は、もともとキリスト教に由来したものなのだろう。信者であろうとなかろうと、「神の目」を意識する文化を継承している。

掛谷英紀学者の正義』には、日本に「神の目」がないことが書かれている。それは、新型コロナウィルスの起源追求という具体例において、絶望的なまでに明らかなものとなった。

しかしながら、同書は、日本に「神の目」はないものの、「英霊の目」があるとしていて、これは極めて重要な指摘である。ただ、「英霊の目」を意識できる人は、あまり多くはないのかもしれない。どのようなかたちにせよ、日本の存続は、ここにかかっているように思える。

「神の目」ではなく「英霊の目」、そして、「ノブレス・オブリージュ」ではなく、掛谷先生流の「目の前にある問題を解決できる能力のある人間の義務」というのは、良い意味で日本的だ。我々にとって自然で、地に足がついた安定感がある。